5月1日から平成が終わり令和の時代になった。各地でイベントが実施されたり、様々な業界が限定商品を打ち出し特需を取り込もうとする動きがあったが、国民の多くはおおむね好意的に受け止めたようである。元号が話題になったので、平成の考案者と言われている(違うのではないかとも言われているが)安岡正篤氏のことを思いだした。

安岡正篤氏といえば昭和の名宰相とされる佐藤栄作氏から、中曽根康弘氏に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた方である。昭和の政財界に大きな影響力があった人物である。そういうことから「昭和最大の黒幕」と評されることがあったが、本人は「黒幕」と言われるのを嫌がり、「自分はただの教育者にすぎない」と考えていたようだ。ただ安岡氏の本当のすごいところは、その人格が慕われ、没後30年以上たった今日においてもなお、安岡氏の人徳、人柄を慕い、私淑する人が多いということである。

安岡氏は何のために学ぶのかという本質的な問いに対して、第一として「人間の本質的完成のため」でなければならないと説いている。荀子の教えを引用して「窮して困しまず、憂えて意衰えず、禍福終始を知って惑わざるためなり」つまり本当の学問と言うものは、立身出世や就職のためではなく、たとえどんな不安困難を感じても、それを処理し、平然と変わらず仕事ができる。何が禍であり、何が福であり、どうすればどうなるかという因果の法則を知って、人生の複雑な問題に直面しても、敢えて惑わないためであると言われている。第二として学問を修めることにより「自ら靖んじ、自ら献じる」ということである。つまり内面的には良心の安らかな満足、またそれを外に発しては世のため人のために尽くすということである。

その教えの極致が「一隅を照らす」という言葉ではないかと思う。安岡氏がある財界人に言った言葉である。「賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つのことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。君、別に偉い人になる必要はないではないか。社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならない人になる。その仕事を通じて世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない」その立場立場においてなくてはならない人になる。この言葉は人間学の極致であり、勇気を与える言葉であると思う。私も人生の指針になる言葉として大切にしている教えである。