11月19日に「日産自動車の会長カルロス・ゴーン氏が有価証券報告書の虚偽記載容疑で東京地検特捜部に逮捕された」とのニュースが世界中を駆け巡った。
ゴーン氏は、1999年に2兆円もの有利子負債を抱え瀕死の状態にあった日産に、最高執行責任者として入社して、21,000人ものリストラを断行し、余剰資産の売却、新車種の投入、インテリア・エクステリアデザインの刷新やブランドイメージの一新等の計画を次々に敢行し、見事にV字回復を成し遂げた。ゴーン氏自身もセブンイレブンと称されたようにハードワークを課し全力で再建に尽力していた姿に、私は素晴らしい経営者だと思っていたし、その経営手腕の見事さは誰もが認めていたところである。
しかし、V字回復した直後に10億もの報酬を得ているという報道を耳にし、私のゴーン氏の評価に?がついた。日産の再建は確かにゴーン氏の手腕に負うことは間違いないが、ただその陰には21,000人もの人がリストラされたというのも事実である。それなのにV字回復を果たしたからといって、直後に10億もの報酬を受け取るのはいかがなものかと思っていた。そう思っていた方は少なくないと思う。今回の事件が立証されれば、その報酬は倍以上となり大変な高額報酬となる。
私は今回の事件で京セラの稲盛氏の言葉を思い出した。稲盛氏がセラミックの研究を成功させ、第二電電を創業し、成功を収めているときに「セラミックや第二電電という誰もやったことのない仕事を展開できたというのは、自分にはそれ相応の才能があるのではないかと思った。しかし、それと同時に、それを行うのは自分でなくても良かったのではないか?と言うことに気が付いた。人は成功していくと、つい、うぬぼれてしまい俺には才能がある、俺は切れ者だ、だから成功したのだと思いその才能を私物化するようになる。そして俺は会社の社長なのだから、数億の給料をもらっても当然だと考えるようになっていく。ところがそうではない、世の中には特定の才能を持った人間が一定の割合で生まれてくるだけである。自分がたまたまそういう才能を持っていたとしても、その才能は世のため人のために使うべきであり、いくら才能があるからと言ってその才能を全部自分のために自由に使ったのでは世の中は不幸になってしまう。決して与えられた才能を私物化してはならないと強く思った」と述べられている。まさに慧眼である。
自分には幸か不幸か私物化するような才能には恵まれてはないが、その精神だけは心に刻んでいこうと改めて思わせられた事件である。